Sunday, October 28, 2007

あみのっちのオペラグラス

皆さん今晩は。週末はどうだった?私は、急にシカゴの家内の実家へ行くことになり、さっき戻ったところなのだ。この前のコスタリカの話がまだ終わっていないのだが、今回はシカゴからの帰り道いろいろ考えたことについて書くことにする。ちょっと長くなったが、頑張って読んでほしい。

どういうわけか、中学2年の時に急に視力が落ちた。それまでは目だけはよかったのだが、この年を境に、何の前触れもなくがくんと目が悪くなってしまったのだ。目が悪い生徒はなるべく前の方の席に座ることにはなってはいたのだが、私は背が高かったので、前の席には座れなかった。メガネをかければそれですむことなのだが、当時はどうしてもメガネをかけることに抵抗があった。だって、メガネをかけ始めた友達が「メガチュウ」と呼ばれたりしたのだ。もし私がメガネをかけることにでもなれば、特製のあだ名を献上されるのはまず間違いのないところだ。「メガ留」とか「有メガ」。挙句の果てに「メガ留メガお」などというフルネームで呼ばれちゃうかもしれないのだ。そんな事態は絶対避けなくてはならない。だから私は、「また視力が急に回復するのでは」という甘い夢を見ながら、メガネは断固拒否していた。しかし、見えないものは見えない。先生によっては何でそこまでというくらい小さな字をお書きになる方や、ものすごく乱暴な字を書きなぐる方(私も他人のことは言えないが)などいらっしゃった。「ここはとても大切なポイントだぞ!試験にも出すからな!」などと言われれば、いくらずぼらな私でも、一字ももらさず書き写したくなる。困った私は、妹のあみのっちのオペラグラスを黙って持ち出し、それで黒板の文字を見ることを思いついた。早速実行してみると、これがなかなかの名案だった。見えにくかった黒板の文字がばっちり見えるだけでなく、先生のチョークを持つ指先の小さな傷まで見える感じなのだ。「これはいいぞ。頭いいなあ、俺って」私は小躍りしたくなるような気持ちだった。

あのころ私が好きだった授業の一つが、S先生の国語だった。S先生はものすごく厳しい(と言うよりは怖い)年配の女教師だったが、私は結構S先生の授業を楽しみにしていた。S先生は実に几帳面な板書をなさる方だったので、私は例の秘密兵器「あみのっちのオペラグラス」を取り出した。私はオペラグラスを使って黒板の文字を確認することを特に悪いことだとは思ってはいなかったが、何となく先生の目に触れないようにはしていた。厳しいS先生ならなおのこと気をつけていた。しかし、だ。突然先生がこちらを振り返ったのだ。S先生のやや小さめの目が見る見る三角に変わっていくのが、オペラグラスを通してはっきり確認できた。「誰だ?オペラグラスなんかで黒板を見ているのは?ふざけるのも大概にしろ!」有無を言わさぬ調子で先生は怒鳴り始めた。「黒板の字が見えなかったので、仕方なく…」などという私の言葉に耳も貸さず、もうただ一方的に「お前は授業を侮辱している」という罵詈雑言を浴びせかけるのだった。オペラグラスで黒板の字を追ったというのは、ものすごく失礼な行為であり、先生をかくも不愉快な気分にさせてしまったという点に関しては、私は自分の非は潔く認めよう。なんたって先生に見つからないようにしていたくらいなのだから、自分でも少々やましい気持ちはあったのだ。だが、私の(正確にはあみのっちの)オペラグラスは、私の前向きな意欲の表れでもあった点だけは分かっていただきたかった。私はS先生の板書を逃したくない一心だったのである。先生の授業に熱心に耳を傾け、板書を一字も書きもらさないようにと頑張っていたのだ。そんな私の「やる気」から出た行為が、ただ単に「失礼ないたずら」としてだけ糾弾されてしまったのだ。私は案外お人よしな人間である。中学生のころはもっとそうだったと思う。だから怒られれば、大概の場合は「すみません」と言う。しかし、このときばかりは「すみません」とは言えなかった。目を三角にして一方的に私をなじりつづけるS先生を見ながら「そうかよ。そんならもういいよ」と、どんどん冷めた気持ちになっていったのを今もはっきりと覚えている。それからしばらくの間、私は国語への興味を失った。

実は、シカゴからの帰り道、車を走らせながら考え続けたのは、先週の火曜日の授業で「あみのっちのオペラグラス」と同じことが起こっていたのではないかということだった。あの日、授業の準備をしてこなかった学生に、理由を聞くこともせず、「きちんと予習をしてきている学生もいるのだから今日は出席点はあげられない」と言った私は、あのときのS先生ではなかったかと。「でも、先生…」と言いかけたマイケルさんは、「この設問だけはやっていなかったのです…」と言ったワンさんは、あのときの私ではなかったかと。「あみのっちのオペラグラス」を、今度は先生役になって繰り返してしまったのではないかという思いが、シカゴからの帰り道、私の心を暗くした。

金曜日にばったりチュンさんに会い、いろいろ話した。チュンさんは、「スケジュールを確認せずに授業に来てしまったのは100%私達が悪いのです。でも、私たちは先生にやる気のない学生と思われたのが本当に悲しかったのです」と言っていた。よくよく聞けば、チュンさんやマイケルさんは私のスケジュールのアップロードが少し遅れたので、きっと模擬面接を振りかえってのディスカッションや中間試験の講評をするのだろうと思い込んでいたということだった。なるほど、そうだったのか。それは無理からぬ話でもある。実際、私もそれを考えないではなかったからだ。でも、あの時はクラスの大半が課題をきちんとやってきていないことに驚き(だって、こんなことこれまでに一度もなかったから)、このままでは学期後半の授業が運営できないぞということだけが頭にあったのかもしれない。締めるべきところは締めなければならいと思った私は、あえて強めの言葉を選んだのだった。結果、ちょっと一方的な厳しい言い方になってしまい、みんなを「やる気のない学生」と一方的に決め付けることになってしまったのかもしれない。「どうしたんだ?」ともう少し聞いてみてもよかっただろうと今は思う。

知っての通り、私は、何でもかんでも学生の言うことを聞き入れますなどと言うつもりは毛頭ない。5年生の授業に関する全責任を負っているのは私だからだ。だけれども、いつでも学生の意見には耳を傾ける用意はある。それぞれの学生の言い分を聞いた上で、バランスを考え、最終的な判断をしていきたいと思っている。だから、みんな、これまでどおり遠慮せずにいろいろ言ってほしい。「先生、本当に大変なんです」と泣きついても、「はいはい。頑張ってね!」と言うだけかもしれないし、「なるほど、じゃあ、もう少し考えようかね」と言うかもしれない。でも、みんなの言うことを、とにかく聞くだけは聞くつもりだ。

その後あみのっちのオペラグラスをどうしたか、全く思い出せないけど、あの日の苦い思いだけはまだ胸に残っている。