Sunday, February 3, 2008

天使の物思い



今学期も私は5年生のほかに2年生を受け持っている。ワシントン大学の2年生というと、きちんとした敬語が使えるのはもちろん、自動詞他動詞、「やりもらい」の表現もきちんとできるレベル。ずいぶんまとまったことが話せてきている。わが学生ながら、よく勉強してくるので、講師としてもやりがいがある。授業が楽しい。優秀な学生の常で、時々気のきいたジョークを返してくれる。先週の木曜、「目」という漢字を導入した。まあ、以前、「見」という漢字のところで「目」の話はしてあるので、「早目」とか「目上・目下」の語彙を確認した。自分の目線の上におくべき人か下におくべき人かということから目上と目下を説明し、「じゃあ、みんなは私の?」と確認すると、もちろん「目下です」とかえってくる。よしよし、と思って、「じゃあ、私はみんなの?」と聞くと、半分ほどの学生が見事に声をそろえて「お年寄り」と言うではないか。大笑いになってしばし授業は中断したのだが、その後きちんと「お年寄り」の漢字も確認できた。悪くない悪くない。

その後「頭」という漢字を導入した。新しい漢字を導入するとき、私はたいてい、もう勉強済みの部首を見つけさせる。この場合は「頁」だった。学生は直ちに「願」と「頼」を例に挙げてくれた。よしよし。後はこの「豆」の部分を覚えればいいのだと説明しかけると、一人の学生が手を上げて言った。「先生、これですね。」彼は左右の頬に手を当て机の上に両肘をついて見せてくれたのだ。つまり、両手で頬づえをついている感じ。物思いふけっているときのポーズだ。彼は、「豆」の部分を身体で表現してくれたのだ。そう、「豆」の「口」が顔、「ソ」の部分がひじから手までの部分、そしてその下の「一」が机というわけだ。「すごい!」私はうなった。私自身がこの漢字を勉強したのは確か小学校2年だったと思う。恥ずかしいほどできの悪い生徒だったので、漢字など全然覚えられなかった。見かねた母がこの漢字は、「一、口、ソ、一、一、ノ、目、ハ」と覚えればいいと教えてくれたことを思い出す。確かに母の言う「一、口、ソ、一、一、ノ、目、ハ」を念仏のように唱えて覚えこめば、「頭」という漢字は書けるはずだった。だが、覚えられなかったのだ、この念仏が私には。ものすごい馬鹿だったからな。でも、今振り返ってみるに、私の頭の悪さもさることながら、この母の念仏も問題がないわけではないと思う。一番の問題点は、この念仏は「頭」というものの持つ概念やイメージにはなんら関係がない点だ。「一、口、ソ、一、一、ノ、目、ハ」を唱えても心に「頭」の「ア」の字も浮かばないではないか。一つの漢字を覚えるために、とんでもなく長く(まあ、個人差はあるだろうが、私には長かった)無意味な念仏を覚えなければならないのか、と思ってしまったのを今も思い出す。これは、あまりにも不合理な記憶法ではないだろうか。それを証拠に、一度だけ、この母の念仏を授業で使ったことがあったが、全然だめだった。学生のあのときのぽか~んとした顔が今も忘れられない。

それに比べ、わが2年生の覚え方はどうだ。ストレートにそして鮮やかに「頭」というものに結びついているではないか。これはすごい。私も、学生に漢字を楽しく学んでもらおうとあの手この手でやってきた自信はあるが、こんな素晴らしいものは私のストックにはない。私は彼を褒めちぎり、今後「頭」という漢字を教えるかぎりこのイメージを使わせてくれと懇願した。と、外の学生が手を上げ「でも、先生、『口』の上の一は何ですか?」と尋ねた。私はすかさず「この『一』は勉強机の電気スタンドでしょう」と返し、ほとんどの学生がなるほどと頷いた。するとまた別の学生が、「いいえ、先生、エンジェルですよ!エンジェルのhaloです!」とまぜっかえし、大笑いになった。なるほど、そうくるか。私は学生と一緒に笑いながら、もう彼らはこの漢字を完全にマスターしたなと確信した。