
先週のディスカッション、素晴らしかったなあ。1時間あれば、あんなに密度の高いディスカッションができるんだなあ。何度も言うけれど、みんな本当にすごいよ。今日は、みんなの話を聞きながらちょっと考えたことを書いてみる。私なりのこの映画の解釈みたいなものなんだけどね。
思い出を一つ選ぶということ。確かにこれはものすごく難しいことだと思う。私はビートルズの大ファンだが、ビートルズの中で一番好きな歌は何かと聞かれたら、「その質問には答えられないね」と答えることにしている。これまでの43年の人生の中から、思い出を一つだけ選べと言われるのは、恐らく、その1億倍は難しいことだと思う。思い出を一つだけ選ぶというのはそれぐらい難しいことだ。難しいと分かりきったことをわざわざ問いかけようとするこの映画に、ある種の「無邪気な無神経さ」のようなものを感じてチュンさんなどは怒ったのだろうし、トレバーさんは反抗の意味を込めて「思い出など選ばない」と決めたのだろう。「ビートルズで一番好きな曲は何?」としつこく聞かれれば、私も「お前などにそんな質問をする資格はない。なぜならお前はビートルズのことが何も分かっていないからだ」と腹立たしい気持ちになるだろう。だから、私にもみんなの気持ちはよく分かる。でも、この「一つだけ」ルールも悪いことばかりではないと思うのだ。それは、この「一つだけ」を求めて、死んだ後、もう一度自分の人生を振り返りそれと真剣に向かい合うことができるからだ。人はみんないずれ死ぬ。誰も死からは逃れられない。だけれど、どれだけの人が死ぬ前に自分の人生をきちんと振り返ることができるだろうか。病気と闘って死ぬ間際まで、もうただただ苦しまなければならなかった人。さっきまで元気そのものだったのに、突然事故に巻き込まれて命を落としてしまった人。まあちょっと極端に過ぎる例かもしれないけれど、僧侶のように精神的な修行を積んだ人でないかぎり、そんなに簡単に悟りを開いて自分の死を受け入れて、なおかつ自分の人生をきちんと振り返ることはできないだろう。何も言わず微笑んで相談員にどんぐり手渡した西村さんのような人は稀なのではないか。だから、たとえ1週間であっても、自分の人生を振り返る機会が持てるというのは悪くないのではないかと私などは思うのだ。
「一つの思いでは外の思い出とは切り離せない」「思い出こそが私が存在してきた証だ」「人間とは思いでそのものだ」という皆の意見に私も賛成する。吉本じゃないけれど、「幸福の瞬間」と言ってみたところで、その瞬間は外の瞬間にいろいろ複雑につながっていて密接不可分なものだ。だから、思い出を一つ選んだとしても、頭の中が空っぽになるわけではなく、それまでのことはちゃんと覚えていて、それまでの出来事の積み重ねの上で「ああ、幸せだなあ」と言える感じになっているのだと思う。あまり考えたくはないことだけれど、例えば、私が病気になってしまい、ベッドから二度と起き上がれなくなってそのまま死んでしまったとしよう。(例えばの話だぜ。トレバーさんじゃないけれど、「言霊」ってものはあると思うから、こんなこと書くのは嫌なんだけどね。)そうなったら、私はきっと、病を得る前の思い出を選ぶだろうと思うよ。元気でぴんぴんしてて、5年生のみんなといろいろ頑張ってる頃のことをね。そうだな、例えばこんな感じ。
一日の仕事を終えて家に帰って、家内とご飯を食べながら、今日の授業のことや家族のことを話してるんだよ。「いや~、やっぱ5年生はすごいよ。文句も多いけど、やることはやるしなあ。それから、あみのっちが結構いいコメントを寄せてくれてなあ」とか家内に話してるんだ。話しながらふと、サラリーマン時代を思い出して、講師になって本当によかったなあと思ったりしている。家内は家内で、日本へ彼女の家族を連れて行くことをあれこれ尋ねてて「お土産何にしましょうかねぇ」とか、「富士山の見える温泉、いいところ見つかった?」とか聞いてる。家族の顔や声が浮かび、ああ、もうじき会えるんだなあとか考えたりしてる。このシーンの前のことはちゃんと覚えているが、病気で身体が言うことを聞かなくなる前の思い出だから、病気にまつわる思い出は一切ない。元気なので飯もうまいし、会話も弾んでる。こんな思い出の中に私は生き続けるのだ。一つの思い出を映画やビデオのような感じで何度も何度も観続ける、または、見せられ続けるというのではなく、選んだ一つの思い出の中に「生き続ける」のだ。