Friday, February 15, 2008

人生の存在する証

遅れてしまって、すみませんでした。
正直に言えば、初めはこの映画があまり好きではありません。よく考えれば、本当に深い意味を含まっています。
まず、人生が存在する証はどんなものですか?色々な人の選択した思い出から見れは、大体二つがあります、と言うと、好きになる事と好きになってくれることです。母のにおいとかまた恋人の間の思い出とか、これは好きになること。望月さんのように、自分のこともう他の人の一番幸せな思い出の一部分なるのはやっぱり人生が存在する証です。
だから、ただ一つの思い出を選ぶなら、不十分な人生になります。また、いろいろなことがあって、見たり聞いたり、いろんな人に出会って、今の私たちになったわけだから、今まで唯一つの思い出を留めて、他の思い出を捨てるなら、自分自身のことを捨てると言えると思っています。そのうえ、思い出の大切さは他の記憶と比較した後、感じられるものです。もし、ほかの記憶を全部消して、思い出の大切さもなくなってしまう。つまり、大切な思い出を珍重して大事にするために、ほかの「つまらない」思い出を捨てるわけには行かないと信じています。
大切な思い出を選択できるなら、人生の存在する証がある、これは表面だけで判断です。選択したくない人はかえって自分の人生の印を保つすることができるかも知らない。

6 comments:

mizube said...

「そのうえ、思い出の大切さは他の記憶と比較した後、感じられるものです。」

賛成です!「その葛藤があるが故に人生はなおさら甘い」っていう諺がありますね。

「一つだけ選んでください」と「大切な思い出を再現して」は情けない依頼だと思います。この映画はこの前提の固有残酷さをもっと直面に対処すれば、私は納得できるかもしれません。

Wordsman said...

「存在する証」は日本の文化ではよく出てくるテーマでしょうか。特にアニメ(少なくとも僕の見たアニメ)の中でよく使う言葉です。でもアメリカの映画やテレビ番組ではほとんど聞いたことないと思います。

Anonymous said...

昨日のコメントの中でエイミーさんがとても興味深いことを書いてくれました。それは、死後局員の役目が「菩薩」に似ているかもしれないと言うことです。自分の好きな時に成仏(この映画の中では「あちら側へ行く」こと)できることが分かりつつ、浄土へ昇らずに人を救いに導こうとする菩薩(死後局員)は、人がこの世との縁を切ることができるように手伝ってくれます。しかし、この世との繋がりを完全に切り捨てろと「あちら側」のサムシング・グレートは死者に求めていません。成仏するとともに、自分の大切な思い出を一つだけ持って行っても良いとされています。そうすることによって、成仏するために俗世から十分に離れるとともに、自分が肉体をもって生きていた証を保ち続けることもできます。

Sohyun Chun said...

先生~どんどん話すものが減りつつあるのです。その理由か、または、今、朝まで寝られなかったので、何も話せることがないかもしれません。後で、また、考えて見ます。すみません。。。

Aridome said...

トレバーさんも言っていたけど、本当に理不尽なルールだよね。「ひとつだけ」っていうのは。でも、映画の中では、これは、厳然たる冷厳たる「ルール」になってるわけだよね。どうしたって人はいつか死ぬ、っていうのと同じようにね。黙って受け入れなければならないことなんだよね。「何でこんなにいい人がこんなにあっさりと死ななくてはならないのか?」という場合もある、というより、そういう場合の方が多いよね。でも、人はそれを黙って受け入れるしかないわけでだね。黙って受け入れながら、そのことに意味を見出そうとするんだよね。

Lawrence said...

遅くなって、本当にすみません。好きになる事という思い出は確かに、存在した証ですよね。景気の奏功などより。好きになるというのは、自分の運命に満足するという事で、それは大切な幸福じゃないでしょうか。