Saturday, March 22, 2008

『午後の最後の芝生』

木曜日の村上の『午後の最後の芝生』の討論を聞いていて、なんと言うか、一言で言えば、ものすごくうれしくなった。みんな若くて、至極まっとうで、一生懸命前を向いてしっかり歩いているんだなあと思ったからだ。「このままでは、未来はいったいどうなってしまうのだろう」などという不安な声をよく耳にするけど、みんなのような若者がいるかぎり、世界はまだまだ大丈夫だと思った。まあ、ちょっと大げさだけどね。

「根無し草」のような「僕」の様子にいらだち、この短編が何を言いたいのか分からないと憤り、こんなことを繰り返し書いている村上の小説が売れるという現象に首をかしげ、ちょっと物珍しかったからだけだと言い切った皆の「まっとうさ」に本当に感動した。「珍しいはずさ、だってこれだけつまらなければ誰も真似したくはないだろう」と断じたトレバーさんには「村上何するものぞ!」という物書きを志した者の心意気を感じた。それからもちろん、アンチ村上一色の雰囲気の中、ただ一人「村上の小説は嫌いじゃないぜ。うまく説明は出来ないけど、実際共感できることあるし」とひるむことなく言ってのけたデニスさんも立派だった。

それにひきかえ、みんなぐらいの頃の私は、もうお話にならないぐらいいい加減だった。(「私がみんなぐらいのとき」はなどと言うと、なんだかものすごく風格のある長老が若者を集めて話をするような感じになってしまうので、まだまだ頼りない43の大学講師には全然似つかわしくないだが。)とにかくとんでもなくいい加減なだめ学生だったのだ。大学の授業には全然行かなかったので、レポートの宿題が課されたことすら知らずに、友達から教えてもらうなどということはざらだったし、試験前には友だちのノートをコピーさせてもらってしのぐという有様だった。うちの大学にはこんな学生、まずいないと思うし、いたとすれば、放校処分だろう。(あみのっちさんはこの辺の事情をよく知っていると思うのだが、あんまりばらさないように。先生辞めなきゃならなくなっちゃうからね。)

不思議に思うだろうが、こんな怠惰な学生もその内面はとても苦しかった。授業に出なくてはならないのに出られないのを情けなく思う自分、出たとしてももはや少しも興味の感じられない授業。級友達や教授達の目には、まさにマイケルさんの言う「浮草」のように見えたことだろうが、その実、焦燥感に駆られていた。「今の自分は本当の自分ではない。今の自分ではない何者かになりたいのだ」と常にじりじりしていた。「ここではないどこかへ。この自分でない自分へ」という思い。でも、いったいどこから始めればいいのか、どうすればいいのか、まったく手がかりがつかめない感じだった。

あの頃の私がこの短編を読んだなら、きっと「僕」をうらやましく思ったのではないか。「僕」のように無責任な「根無し草」になれたらどんなにかいいだろうと。友達も別にいなくてもかまわない。面倒くさいことは全部パス。誰にも何も求めない代わりに誰にも何も求められたくない。そんな風に、「今の自分ではない自分に、ここではないどこかへ」という声を一切シャットアウトできたらどんなにいいだろうと思ったのではないかと思うのだ。

久しぶりに顔を出した学校で、「あ、世捨て人、久しぶり」と言われたことがあった。痛烈に、自分はどこにも属していないんだと感じた。「自分は誰なんだろう。自分はどこへ行こうとしているんだろう。」どこにも居場所のない情けなさを突きつけられた思いだった。そんな怠惰なだめ学生にとって、唯一張り合いのあることが塾でのアルバイトだった。自分の学校にもきちんと通えない者が先生をやると言うのだからお笑いなのだが、私はものすごい勤勉さでこの仕事をこなしていった。われながらいい先生ということになっていて、塾の経営者や生徒の父兄にも感謝されていたし、就職が決まって仕事を辞めるときには、なんと退職金までもらったのだった。あの頃の私にとって唯一確かだったことと言えば、「きちんと塾での授業をこなす」ことだった。「僕」にとって唯一確かだったことが「きちんと芝を刈る」ことだったように

6 comments:

Wordsman said...

私も高校に戻るときいつも「ここは本当に私の学校だったか」という違和感を感じます。いつもちゃんと授業に出たのに、ほかの人とほとんど関係がなかったから居場所がないと思ったこともあります。そして高校のとき、私の得意なことに「きちんと受験をこなす」だけだと思って不安でした。だって、塾で教えることや芝生を刈ることに誰かが払ってくれるだろうが、試験を受けることは実の世界に役立つことはないじゃないですか。

あみのっち said...

課題になった村上の小説は読んだことはないのですが、またまたエキサイティングな討論が繰り広げられたみたいですね。すごいなー。
というわけで、aridome先生のエントリから内容を推測するしかないのですが……
若い頃の一時期、たいていの人は一度くらい「今の自分は本当の自分ではない。こんなことをしていていいのか!?」みたいな気分になるのではないでしょうか? 本当の自分なんて、今ここにいる自分以外にいないのにね。かといって「根無し草」になれるほど思い切ったこともできない。そんな真面目に焦っている人たちが村上の読者だったりするんじゃないかな。

浪人~大学時代のaridome先生の根無し草っぷりったら、呆れるほどでしたよ(笑)。そんな彼に、塾講師のアルバイトを紹介したのは私でーす。それが20年後にこんなに立派な生徒さんたちを抱えるようになってるんだから、人生って面白いよねえ。

mizube said...

あみのっちさん、村上の作品はあまり好きではないそうですが、どうしてですか。

村上のノンフィクションなら、割と好きなので作家や評論家としての魅力は少し分かります。でも、皆さんが知っている通り、「僕」のようなキャラクターに腹を立てます。女の同感かもしれませんが、「僕」よりも「彼女」の方に同情します。

でも、ぐうたらな男でもたまに成長して確りした男になるでしょうね。嬉しいことです。(笑)

明君 said...

人には、それぞれ周りの状況が色々変化することが起きます
。私の周りも変化が激しいと思いますが。それに対応することも大切です。頑張りますとは簡単に言えますが、実際頑張ることは大変なことです。途中で苦しさから逃げる気持ちもあります。
でも、あみのちさんが言うように、「根無し草」になれるほど思い切ったこともできない。

Anonymous said...

私も高校時代に「根無し草」になり世間と断絶できたら人生もっとラクなのに・・・と思うことが多々ありましたが、小心者なので社会から孤立する勇気すらありませんでした。

有留先生のブログを読んで、世の中に対しては勿論のこと何に対してもやる気が出ず人生模索中の青春時代に私が唯一これだけはまじめにやったな!と、人に言えるものって何だろうと考えさせられました。でも、それが何であったかは秘密です。なぜなら、塾の講師をしていた「先生」や芝刈りの仕事をしていた「僕」みたいに誰かの役に立ったという様なものでは無いし、トレバーさんの様に受験のために勉強をすることも放棄していたからです。私が高校時代に打ち込んだことは、お金にもならなければ成績にも良い影響を及ぼすものでもありませんでした。

Aridome said...

うーん。それが、社会のためになっているかどうかということは、実はここではあまり問題ではないんだよ。私の「塾講師」にしても、それをやっているときは、別に未来につながっている気がしなかったから、いくら頑張って褒められたとしても、「自分にはこんなことしかできないんだな」という思いにつきまとわれていた。恐らく、「僕」の「芝刈り」も同じだろうな。「他人に感謝されたからって、それが何?」っていうところだったのではないかな。